高村光太郎は、日本を代表する彫刻家で画家でもあり、さらに詩人としても知られています。多方面で活躍した高村光太郎の作品は、今もファンから愛され続けています。
しかし、「自宅に高村光太郎作品があるが価値がわからない」、「価値がわかる人に譲りたい」と考える人もいるでしょう。このページでは、高村光太郎作品の買取相場や、作品の特徴、代表作品をまとめました。
高村光太郎の作品の買取相場
高村光太郎の詩人としての代表作、「智恵子抄」や「道程」は教科書にも掲載されるほどの知名度を誇る作品です。
しかし、高村光太郎が残した功績は文学界だけではありません。高村光太郎の彫刻作品は高く評価され、美術館にも収蔵されています。
高村光太郎は残された作品数も希少で、もしも真作であれば高額の買取が期待できるでしょう。高村光太郎作と思われる作品が手元にある場合には、知識がある専門家へ査定を依頼することをおすすめします。
高村光太郎について
高村光太郎は、仏師であり木彫刻家でもある高村光雲の長男として、1883年(明治16年)に生まれました。父親の影響もありロダンの作品である「考える人」の写真を見て、大きな衝撃を受けたことから彫刻家 を志すようになりました。
その後、高村光太郎は、東京美術学校予科に入学しています。卒業後には、与謝野鉄幹の新詩社に入って「明星」に短歌を発表、さらに1906年(明治39年)には、留学してロダンと親交を深める等、精力的に活動しました。
帰国後は、荻原守衛とともに日本に初めて近代彫刻を導入、さらに彫刻や絵画、詩を出品しています。
第二次大戦中にはアトリエが罹災し、岩手県で生活を送るようになりました。高村光太郎が、1956年(昭和31年)に肺結核で死去するまで、彫刻家、工芸家、洋画家、詩人と多くの分野で功績を残しています。
高村光太郎の略歴については以下にまとめています。
1883年(明治16年) | 彫刻家の高村光雲の長男として生まれる。 |
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1897年(明治30年) | 東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)彫刻科入学。 |
1906年(明治39年) | 彫刻修行のため、ニューヨーク、ロンドン、パリに留学。 |
1909年(明治42年) | 帰国。 |
1912年(明治45年) | 第一回ヒュウザン会展に油絵出展。 |
1914年(大正3年) | 詩集『道程』を出版。長沼智恵子と結婚。 |
1941年(昭和16年) | 詩集『智恵子抄』を出版。 |
1953年(昭和28年) | 記念碑の塑像(裸婦像)「乙女の像」完成。 |
1956年(昭和31年) | 肺結核のため自宅アトリエにて死亡。 |
高村光太郎の代表作品
高村光太郎の作品は、美術の教科書等でも目にする機会があるかもしれません。どういった作品を残しているのか、高村光太郎の代表作品を紹介します。
手
高村光太郎が残した作品の中でも、有名なのが「手」です。一般的な男性よりも一回りほど大きい手は、親指が反り、小指は柔らかく弧を描くように曲げられています。
筋肉質な力強さと曲線が共存したこの作品は、34歳の高村光太郎が自身の手をモデルにしたものです。貧乏でモデルを雇うお金がなかったともいわれている作品で、留学から帰国してから作成されました。
柔らかい小指の曲線は「施無畏(せむい)」という観世音菩薩の手をイメージしたもの。彫刻家として生きていく高村光太郎の決意を表したものと考えられています。
乙女の像
「乙女の像」は、青森県にある十和田湖畔休屋の御前ヶ浜に配置された高村光太郎の代表作です。
十和田湖国立公園指定15周年の記念として昭和28年に製作され、現在も十和田湖のシンボルとして愛されています。
「乙女の像」は裸婦が2人で左手を合わせ見つめ合うデザイン。背中の線を伸ばし、つなげた無限をあらわすとされる三角形を描きます。
モデルとなったのは、高村光太郎の愛妻である智恵子とも言われました。そのことを高村光太郎に確認した人に対して、見る人が決めればいいと回答したそうです。
台座には、智恵子の故郷である福島県の黒御影石が使用されました。「乙女の像」は高村光太郎が完成させた最後の作品でもあります。
蝉
高村光太郎の作品「蝉」は朴訥とした雰囲気が魅力的な小ぶりな木彫作品です。高村光太郎は、木彫からスタートしたものの塑像がメインとなり、後年になってから再び木彫作品を手掛けるようになりました。
高村光太郎は、全体のまとまりが良く、線が美しいとして蝉のモチーフの作品を何点も残しています。
特にこだわっているのは翅(はね)の表現で、そのこだわりは「蝉の美と造形」と題した文章でも綴られています。蝉を表現するために写実に徹するのではなく木材の質感や彫り跡を残すことで、生命の力強さを感じさせる作品です。
柘榴
高村光太郎が製作した木彫り作品の中でも、傑作との呼び名が高いのが「柘榴」です。
この「柘榴」は割ったのか、かじった後なのか半分に割れた形をしています。中身の果実があらわになっていることで、作品全体を瑞々しく見せている点が特徴的です。
高村光太郎が残した木彫り作品は、繊細な超絶技巧というよりも素朴さや味わいを感じる仕上がりです。「柘榴」も、ただ見たままのものを再現するのではなく、木彫りという表現手法を活かしてより肉感的な果実を表現した作品です。
道程
高村光太郎の詩作である「道程」は、大正3年に製作され「美の廃墟」3月号に掲載されました。もともとは、102行に渡る長詩ですが、9行の詩となり同年には詩集『道程』が刊行されています。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」から始まる詩を教科書で読んだ人も多いでしょう。
高村光太郎は近代詩人としても中核をなす存在でしたが、高村光太郎自身はその本質は彫刻家であると騙っています。
「道程」は、高村光太郎が結婚した年に発表された作品です。愛妻である智恵子と出会ったことで葛藤から抜け出し、強く生きていく決意が込められた作品であるともいわれています。
高村光太郎の作品を高く売る方法
高村光太郎の作品は、空襲等で消失しているものもあり、決して多くはありません。しかし、高村光太郎作品は美術作品も、文学作品もいまだ多くの人の心を惹きつけています。
もしも手元に高村光太郎作品があれば、高値での取引が期待できるでしょう。高村光太郎作品を高く売るための方法について紹介しています。
付属品があればそろえておく
高村光太郎作品に限らず、美術品や宝石、骨董品といった価値が高いものを査定してもらうときには、できるだけ付属品を揃えておくようにしてください。箱や鑑定書、台座、証明書といった付属品は、作品の作者や年代、由来を証明する重要なものです。
査定でも貴重な情報として扱われ、特に、共箱や栞などが入っていると鑑定もしやすくなります。高村光太郎作品の場合、作品そのものの希少価値が高いため、真作であることが確認できれば高額での買取が期待できます。買取に出す前に、付属品がないか確認しておきましょう。
無理にメンテナンスをしない
彫刻作品の中でも、木彫作品は素材の性質によって腐食してしまうことがあり、状態が良いものは貴重です。一方でブロンズや大理石といった素材の彫刻であれば、腐食の心配はありません。
そういった材質の作品は保管状態よりも作家や歴史的価値で価格が決まる傾向があります。
自宅に飾っていた彫刻作品の場合、ホコリが溜まっていて水拭きしたくなるかもしれません。
しかし、木造の彫刻を濡らすのは絶対に避けてください。水分のシミが広がってしまうことがあります。
また、ブロンズ像も水気や塩気は厳禁です。メンテナンスに不安がある場合には、状態を悪化させてしまわないように最低限の手入れだけで買取査定に持ち込むようにしましょう。
買取専門店に持ち込む
どれだけ価値が高くて状態が良い骨董品であっても、買取する側に知識がなければ正しい鑑定はできません。
骨董品をネットオークションやフリマアプリで処分することも可能ですが、正しい価値で取り引きされないリスクもあります。価値が高い品を適正に評価してもらうには、経験豊富な鑑定士が在籍している買取専門店に持ち込むことをおすすめします。
出張買取も実施しているので、持ち運びで破損、紛失するリスクがありません。買取専門店は、知識も経験も豊富なので価値がある品を高値で買取してもらえる可能性が高いでしょう。
また買取査定が無料の店舗もあるので、お試し感覚で利用する方法もあります。価値に見合った価格で取引するためにも買取専門店の利用を検討してください。